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親鸞さんにあおう

本日は、お寺の初お講。

「お講」っていうのは、要するに“教えを中心とした寄り合い”みたいなもんです。

その昔は、各地域ごとにお講が結成されていたんだそうですが、今は過疎とか、高齢化とか、色んな原因が指摘されますが、その数は減少の一途を辿っております。
寂しいですね・・・。

それだけ、教えを聴き、それをまた確かめ合う場所が無くなってきているということ。
だからこそお寺のこういった行事は大切にしていきたいな、と思います。


「親鸞さんにあう」

自分自身、最近よくこのフレーズを見聞きするようになったと感じます。

ですが、750年以上も前に亡くなっている方に「あう」とはどういうことなのか?と
疑問に思う方もいらっしゃることでしょう。


これはあくまで自分の了解ですが、ここで言う「親鸞さんにあう」というのは、
「親鸞という人の歩み(生き方)を今(現代)を生きる私はどのように受け止めているのか?」ということになるんじゃないかと思っています。


弥陀の名号となえつつ

信心まことにうるひとは

憶念の心つねにして

仏恩報ずるおもいあり  (浄土和讃)



これは親鸞聖人がお書きになった和讃の一節。この短い文章の中に、自分は親鸞という人の歩み(生き方)が端的に表されていると感じます。

この和讃の中の「仏恩」(“ぶっとん”と読みます)とは、阿弥陀仏への恩。

それでは、「阿弥陀仏への恩」とは何か?と言えば、
「阿弥陀として表される“まこと”のはたらきに出会えた(ふれることが出来た)ということに対しての恩」ということ、また、「阿弥陀という“まこと”のはたらきに出会えた(ふれることが出来た)ことを通して、“自分”という存在の姿が明らかにされた」ということに対して感じる「恩」なのだということ。
勿論、それは「いいこと」も「わるいこと」も全部含めた上でのことですが。


そうやって、親鸞という人の歩み(生き方)は、その90年の生涯をかけて、“まこと”に出会い続け、“自分”という存在の姿を確かめ続けてこられた歩みだったのではないでしょうか。

そのひたむきな「聞法」(もんぽう)の姿勢、教えを聴き続けてこられた(あるいは、教えに出会い続けてこられた)姿が偲ばれることであります。


如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨をくだきても謝すべし  (正像末和讃)



親鸞という人にとって、“まこと”のはたらき、またそれを教え伝えてきてくれた先人達、そのどちらに対しての「恩」も「身を粉にしても」「骨をくだきても」報謝していく程のことである。それくらい有難いことであった、と。

上の和讃は、それらに出会えた親鸞聖人の歓び、感動が伝わってくるような一節ですが、そんな親鸞という人を「そんな人いたよねー」といったように歴史上の人物として見るか、あるいは、“まこと”に出会い続け、“自分”という存在の姿を確かめ続けてきた人物として見るかで、その見方は大きく変わってくることでしょう。



さて、あなたは、どちらの親鸞さんと出会っていきます?




【本日の一曲】



>>Temples - Shelter Song



選曲に深い意味はないです。最近、聴いてるやつ。

バンド名に惹かれて。


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| ksm.の小言 | 17:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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